臨書のお手本について考える事 | KSHO

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臨書のお手本について考える事

臨書は、もちろん古典を見て臨書したいです。では、お手本があるということはどういうことになるのでしょうか。

先生のお手本は上手いです。その上手さを学ぶのですから、お手本は存在する価値があるといえます。そのお手本を見て、上手い作品を書いていくのですから。

もしかすると、臨書の目的は何か、ということがその根本にあるのかもしれません。臨書で展覧会に出す場合があるとします。その時の臨書の目的は展覧会に出品することだったり、賞をとることだったりします。そういう目的の臨書であれば、お手本は必要だし、その目的であれば、頑張れば結果がついてくるのかもしれません。

しかし、

しかし、本来の臨書とは本当の意味で、その古典から何かを吸収し、消化し、自分のものにするということのはずです。しっかり自分で古典と向き合い、自分の力で吸収したり消化したりしたいのです。

そういうことを考えてみると、お手本の存在は、どういうことになるのでしょうか?

ある古典を臨書をするとき、前に臨書した古典を忘れる事なんかできるのでしょうか。一つ目の古典を学び、二つ目の古典を臨書する時、一つ目で得た何かが自分の中に残っていて、その感覚で二つ目の古典に取り組みます。言い方を変えれば、きちんと臨書ができていれば、一つ目は自分の血となり肉となっているからです。それを忘れようとしても、それが自分の体内に入り込み、混ざり合っているのです。ということになれば、二つ目の臨書の時、一つ目の古典を忘れることなどできなくなると思います。

もし、忘れることができるとしたら、それは、本当の意味で消化できているのかもしれません。もしくは、もともと消化などしなかったのかもしれません。

本当の意味で消化をして、忘れることができている場合、やはり体内では、一つ目の臨書をする前と後で全く違う自分になっているわけですから、やはり、その影響は何らかの形で表れるはずです。

結論を言いますと、お手本は、それを書いた人がこれまで歩んできた要素が全部含まれているのです。しかも、お手本を書く人はすごい人なので、いくつもの古典を習得していることでしょう。そのお手本を見て、勉強するということは、一つの古典以外の要素で溢れているお手本を見ているということになります。だから、逆に難しいのではないでしょうか。こじらせてしまう。という感じです。古典にはない表現を目の前にして、どのように処理をするのか、難しい判断です。しかし、多くの人はお手本を見ているとき、古典を見ない場合が多いので、この問題には気がつかない可能性があります。気がつかないけど、何かに迷っているのです。

迷わせないお手本が存在するとしても、それは、一度、古典を見てしまえば、その違いに驚くでしょう。よく言えば、お手本を書く人がポイントを絞っているともいえるかもしれません。物は言いようです。

やはり、自分で古典を見て自分で取り組むことが必要なのです。

お手本の存在は否定したいのですが、師が横で書いて見せるのはあると思います。この人はこのように見ているんだ、この人はこのように見えているんだ、この人はこのように表現している。。。。と思いながら、さあ、自分はどうしようかな。よし、やってみよう。と思うことが大事です。

お手本ではなく、横で同じ古典に向かう同志となりたいです。

大事なのは、自分が主体で存在し、自分主体で古典に向き合うこと。

それは、お手本があったとしても、出来ることだと思うのです。

お手本があることが多い環境にいる人も、お手本を大切にしながら、自分で古典に向き合うということを大切にしてみてください。

この記事の著者

荒金 治

1974年3月18日生まれ。父である書家荒金大琳に師事。大分県別府市出身。別府大学を卒業後、中国北京に留学する。北京語言学院で中国語を学び、北京大学での本科(学部)・修士課程を経て、北京師範大学で博士号を取得。これまでに、別府大学、別府市立別府商業高等学校、北京語言大学で教鞭をとった経験があります。書道について思考してきたことを、言葉にしていきたいです。

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