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転んでもただでは起きない

別に「転ぶ」といったようなことではないかもしれませんが、

書道を通して自分を探すというときに、展覧会では、逆に自分を見失う人も出てきます。

いい賞を取りたいという気持ちは、否定しませんんが、その賞と自分が一致する人って、

本当にすごい人なのかもしれません。

お手本の存在や、いろんな人からのアドバイスやコメント、

その中での作品制作は、どこまで自分がいるのでしょうか。

ある程度は、そこでもまれて成長するという考え方もいいと思います。

今回考えているのは、その上で、自分を忘れずにどう取り組むことができるかを考えたいということです。

いろんな分野でも同じだと思いますが、

アドバイスは、一つの方法を示してくれているものであり、

最終的には、自分で選択していきたいのです。

アドバイスを受けて、その通りにしたとき、

大事なのは、そのことについて、自分がどう考えていくのか、

どうしたらそれが自分のものになっていくのかということです。

簡単に言うと、正しい意見だとしても、自分を通り過ぎて、実行に移すとよくないかもしれないということです。

本当に自分の意見はだめなんですか?

自分でやりたいこと、沢山あったんじゃないですか?

そのたくさんのことと言う源となるのが古典です。

日頃の臨書で、いろんな蓄積があれば、創作をするときに、いろんな考えやイメージが湧き出てくるかもしれません。

そういう湧き出てくるものが湧き出てくるような毎日を過ごしたいなと思います。

インプットとアウトプットなので、インプットが少なければ、アウトプットがきつくなります。

それを助けるのがお手本なのかもしれません。そこを頼りにするのを悪いとは言わないけれど、癖になるし、依頼してしまうし、自分で作り出す世界から遠くなるのではないかと心配しているだけです。

学生の場合、臨書の作品を書くことも多いです。臨書の場合、古典が目の前に存在するので、古典ときちんと向き合いたいです。しかも、創作と違うのは、臨書そのものがインプットでもあるということです。

そのまま書いても作品にならないという人もいるかもしれません。それは、いま、日本で求められているものが臨書といいながら、臨書を基盤にした創作が求められているからなのだと思います。ということは、日ごろは、きちんと臨書をして、作品を書くときに、臨書だけど、表現をもっと自由にできるということです。

その時に、もうすでにある表現がいいように思ってしまう人も多いので、ある一定の方向に一定の人たちが群がってしまうことがよくあります。

本来は、古典に対して、みんな違うものが見えているし、違った印象を受けている可能性があります。

1は1、5は5といったような広がりのないものは、古典の中にはないと思っています。どちらかというと、先生が示してくれるお手本の中には。ここを学んでほしいというメッセージが含まれることがあるため、一つのことを伝えるために存在することもあるのでしょう。

そう考えたときに、古典を用いて作品を書くとき、本当に古典をみつめて、感じて、そこから一歩動くことは許されると思ってみましょう。

言い方を変えると、ほかの人の古典の臨書は、その一歩がすでに動かされているのです。だから、それを動かそうとすると、上手く古典に帰ることができればいいけど、そんなことはできません。古典からは、二歩離れたことになります。

そこまで離れると、もう何が何だか分からなくなります。

少し、百歩譲って考えてみると、

先生がその一歩を動かしたお手本を書くとします。

それを見て書くのは、二歩進むことになり、僕的にはアウトです。

でも、先生の意図をくみ取り、原本を見て、先生が動かした一歩を原本を出発点として一歩動かそうとする。これは、セーフなんだと思います。

ただ、この場合、一歩を探した人は先生なので、自分ではないということです。先生に学ぶというのをこの活動だと考えている人もいるかもしれませんが。

本当に自分が原本から一歩進める時、いろんな人がいろんな意見を言うかもしれません。でもそれこそが自分なんだから、堂々としておきましょう。ただ、そこに理解不足などが存在してそのことにアドバイスをもらえるなら、それはとてもうれしいことでしょう。

転んでもただでは起きない。

この言葉とどのようにつながると思いますか?

展覧会に出すという活動で、自分探しという視点から見ると、転んでいるようなことが多く起こってしまいます。その時に、少しでも自分を見ることができたら、少しでも古典の何かを見つけることができたら、それが「ただでは起きない」ということになると思うのです。

転んだときって、急に視界が変わります。歩いていてずっこけたら、下の方から世界を見ることになるし、自転車で壁にぶつかった時、壁が目の前にある瞬間をいつまでも覚えているし、・・・

そういういつもとは違う状態になることで、改めて自分の新しい一面と出会えるかもしれないのです。

展覧会とは、そういう新しい自分をみさせてくれる場所なのかもしれません。

いろんな考え方があり、いろんな理想があります。

そしていろんな現実があります。

その中で、新しい自分を見ることができたら、「転んでもただでは起きない」ということになるかもしれないと、ふと考えてしまいました。

この記事の著者

荒金 治

1974年3月18日生まれ。父である書家荒金大琳に師事。大分県別府市出身。別府大学を卒業後、中国北京に留学する。北京語言学院で中国語を学び、北京大学での本科(学部)・修士課程を経て、北京師範大学で博士号を取得。これまでに、別府大学、別府市立別府商業高等学校、北京語言大学で教鞭をとった経験があります。書道について思考してきたことを、言葉にしていきたいです。

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